カープと私【№4】
2016.10.13|中井 克洋
3 全盛期(古葉監督時代)
私たちの世代のカープファンはその後とても幸せな時代をすごすことができました。
昭和50年の初優勝から少し時間がかかりましたが、私が高校3年になった1979年(昭和54年)のシーズン前に、南海から江夏がトレードされてきました。
抑えがしっかりしたことで優勝できそうな雰囲気ができ、当時山本浩二、水谷らが全盛期を迎えつつあり、高橋慶彦も育ってきていました。
ギャレット、ライトルという外人もとりました。
特にライトを守るライトルの強肩は、イチローが呼ばれたようにまさにレーザービームでした。
それをみるのが楽しみで、球場にいったときにはライトに座るようにしたものです。
そのころ、衣笠も主力の1人でしたが、正直いいまして、昭和59年に初めて3割を打つまでは、打者としてはあまり確実なほうでもなかったのですが、意外なところで打つホームランは魅力でした。
その衣笠が7番に座った打線はとても破壊力がありました。
1番ショート
高橋義彦
2番セカンド
山崎
3番ライト
ライトル
4番センター
山本浩二
5番レフト
水谷
6番ファースト
ギャレット
7番サード
衣笠
8番キャッチャー
水沼
という打線で、当時は、どの球場もまだ狭かったこともあり、年間200発以上ホームランを打つし、またほとんどの選手がよく盗塁する、すごい打線でした。
投手陣もかなり整ってきて、池谷、高橋里志、福士(松原)、北別府、山根といった先発陣に、渡辺秀武、大野の中継ぎ、抑えのエースで江夏と、かなり豪華でした。
みんながカープは優勝の本命だと思っていましたが、出足につまずいてしまい、ようやく夏ごろから実力を発揮して、一気に連勝を重ねて最後は大差で優勝しました。
当時、私は高3で受験生でしたが、正直言ってカープにかなり入れ込み過ぎてしまいました。
高2の後半からかなり勉強したおかげで、高3の夏頃には模擬試験の成績も志望校にかなりの
確率で入れるようなものになっていました。
しかしバカな私は夏頃からカープに肩入れしてしまい、試合を見に行ったり、ラジオを聞きっぱなしにしてしまって、勉強がおろそかになっていきました。
そして江夏の21球で有名な近鉄との日本シリーズ第7戦は共通一次試験の模擬試験の日でしたが、ほとんど試験に集中することができませんでした。
江夏はノーアウト満塁のピンチを脱して、カープは初の日本一になりました。
しかし私のほうは余韻が残りました。優勝したあとで、受験まで十分に時間があったので、そこでネジをまき直せばよかったのです。
しかしさほど勉強をしなくても、その後の模擬試験の成績がよかったために、未熟だった私は「自分は勉強しなくても十分に受かるんだ。」と慢心してしまったのです。
そして調整不足で大事な二次試験に臨んだものの、初日1科目目の数学でうまく滑り出せませんでした。数学が一番得意だったのに、それをとりこぼしたために落ちてしまいました。
カープが優勝しなくても、おそらく同じように天狗になって落ちただろうと思うのですが、このときの経験はその後の人生で慢心をいましめる教訓になりました。
【つづく】