カープと私【№6】
2016.10.18|中井 克洋
4 全盛期の残照時代
その後、1986年(昭和61年)には阿南監督の時にリーグ優勝しました。
実は昭和61年に私は大学を卒業して、会社に就職しましたが、すぐに体を壊してしまい、夏頃広島に帰って長い入院生活をはじめました。
その年、カープは王監督ひきいる巨人と最後の最後まで球史に残るデッドヒートを演じました。
最後の10試合で巨人もカープも8勝2敗とか9勝1敗とかのペースになり、どちらかが負けた方が脱落という、ものすごく緊張する試合ばかりでした。
その年は既に、山本浩二をはじめとした主力打者たちもベテランになっていたため、夏頃になると打てなくなりました。
北別府、長冨、大野、川口といった先発投手陣と、炎のストッパー津田が最小失点で何とか接戦をものにするゲームが続きました。
9月以降は毎日、胃の痛くなるような試合を病院の病室で同室の人たちと観戦して、本当に血圧と心拍数があがっていました。
体に悪い入院生活でした。
最後に巨人がヤクルトに負け、カープが神宮でヤクルトに勝って決着がつきました。
津田投手が最後に三振をとって、達川にだきついたシーンは有名です。
その後、日本シリーズで西武に負けて、山本浩二が引退しました。
最初3連勝して王手をかけた時に、西武球場の勝利者インタビューで、津田投手が「西武なんてたいしたことない」と軽んじるような発言をしました。
実はそれだけでなく、もうひとつ勝負のアヤがありました。王手をかけて臨んだその試合(第1戦が引き分けだったため、第5戦目です)に同点で9回の表を迎えて、1アウトで山本浩二が2塁に進みました。
それまでなら代走が出ていたのですが、ベンチはおそらくそれで引退なのでせっかくだからだと思ったのかもしれません。
そのまま山本浩二に代走を送らずにいたところ、次の打者がヒットを打ちましたが、山本浩二は3塁でとまりました。
その時点でようやく代走を出したのですが、次の打者以降が倒れて点が入りませんでした。
その後、延長戦になり、津田が投手の工藤にサヨナラヒットを打たれて負けたのです。
大学受験のときや、学生時代にかなりこった麻雀でも、油断して手加減したときに必ずその揺り戻しがくることを経験していた私は、それで流れが変わったらいやだなと思いました。
するとその後まったく心配したとおりになって、カープは西武に4連敗しました。
最後の8戦目(1戦目が引き分け)の市民球場で、秋山がとどめのホームランを打ってホームに帰ったときに、バク転をした時はかなり頭にきたものでした。
数年後、巨人と近鉄の日本シリーズでも近鉄の加藤投手が3連勝した時に同じような発言をして、やはり巨人が4連勝しました。
勝負というのはやはり下駄を履くまではわからないし、相手を軽んずるようなことをして油断すると必ずしっぺ返しがくるということを感じます。
【つづく】