カープと私【№3】
2016.08.29|中井 克洋
昭和50年は、
長嶋新監督の巨人が
早く脱落して最下位が
確定しましたが、
それ以外の5チームは
オールスターころまで
ダンゴ状態でした。
よく知られているように、
オールスターの
甲子園で山本浩二と衣笠が、
アベックで連続ホームランを
打って、そのころから、
赤い帽子にちなんで、
カープが全国的に
「赤ヘル軍団」と
呼ばれるようになりました。
その後、大洋とヤクルトが
脱落して、阪神と中日との
3つどもえになり、
最後には中日と
デッドヒートになりました。
昭和61年の巨人との
デッドヒートのときも
そうでしたが、
シーズンの終わり頃は
優勝争いをするチーム同志は
ほとんど負けることが
なくなります。
当時は今と違って、
市民球場は、女性や子どもが
あまり行けそうな
雰囲気などなく、
試合中は相手チームに対して、
負けるとカープに対して、
今ならヘイトスピーチとして
問題になりそうな野次が
飛んだり、物が投げ入れられたり
していました。
野球はそんなものだと
思って育ちましたので、
私も野次はかなり
飛ばすほうでした。
9月の中日戦では、
1点差を追う9回2アウト2塁で
山本浩二がセンター前ヒットを
打ったものの、
ランナーの三村がホームで
タッチアウトされたときに、
新宅捕手からきついタッチを
されたので、つかみあいに
なりました。
すると観客もなだれこんで、
大乱闘になりました。
今では考えられないほど、
ファンも選手も必死でした。
でもそのせいで、
翌日の試合は中止になって、
重松代表が「情けない!!」と
男泣きをしたのは
とてもよく覚えています。
その中止になった中日戦が
最終戦に回り、
もし後楽園で優勝を
決められなかったら
どうなったか、というのは、
有名な話です。
10月15日の後楽園球場の
巨人戦は、学校が早く終わって
家に帰ってテレビに
くぎ付けになりました。
9回表にホプキンスが
3ランを打ったときは
本当にうれしくて、
うちもそうでしたが、
どの近所の家からも
歓声がおきたのが聞こえました。
日本シリーズは、
阪急と対戦しましたが、
山田と山口が全然打てずに、
1勝もできませんでした。
2引き分けは、外木場が投げた
試合でした。
でも多くのカープファンにとって
優勝することだけで十分でしたし、
おそらく選手や監督たちも
とても日本シリーズのことまでは
考える余裕はなかったのでは
ないか、と思います。
【つづく】