カープと私【№5】
2016.10.14|中井 克洋
次の昭和55(1980)年は、前年の反省から、東京に出て、受かるまではカープと縁を断とうと思いました。
当時まだ開発中だった田園都市線沿線の「市が尾」という駅に予備校の寮があり、テレビは持ち込み禁止で、夕食の1時間以外はテレビ絶対禁止という環境で勉強しました。
さすがに、この年は、球場にいくのはもちろん、ラジオやテレビをみるのも我慢しようとしたのですが、日本シリーズだけは東京で知り合った友人の家にいって試合をみてしまいました。
私の今までのカープファン人生の中では、この年が一番強かった、と思います。打線も投手もすごいチームでした。
日本シリーズは近鉄との2年連続の対戦になりました。3勝3敗で最終戦を迎えましたが、カープの方に少し余裕があるように思いました。
そして最終戦で衣笠がとどめの3ランを打って、最後に江夏が抑えて優勝し、衣笠と高橋慶彦がマウンドにかけよりました。
そのときの写真をスポーツ新聞が販売していたので、買ったものが今、私の机の横にかざってあるパネルです。おそらく、後にも先にも、一番の全盛期になるのだと直感して買った物です。
その後、カープは昭和59(1984)年にも優勝し、阪急との日本シリーズでも勝って日本一になりました。この年は衣笠がはじめて3割を打ち、チャンスでも強く、MVPになりました。
そのころ、衣笠はケガをしながらも連続試合出場を続けていました。
今の私には、どんなに調子が悪くても仕事をこなすという「無事これ名馬」がいかにすごいことかというのはわかりますが、当時の青い学生の私にはわかりませんでした。
その時には私は大学生でしたので、ゆっくり野球を見ることができました。
しかしそのころは、カープファンもカープが強いことに慣れてしまって、古葉監督の手堅い野球に対して飽きもでてきて、強いのに球場に客があまり入らないようになっていました。
今となってはとんでもない贅沢な話ですが、当時のファンたちは、一番バッターが塁に出て、二番が送りバントをするという野球が面白くないと思っていたのです。
その当時は、当然のことだと思っていましたが、その後、優勝から遠ざかったときには、その当然のことができないチームになっていきました。
やるべきことがきっちりとできるということがいかに難しいかということを、カープファンはこの25年間、思い知らされてきました。
その意味からすると、古葉監督から次の阿南監督までの時代はやはりすごい時代だったと思います。
こうして、昭和50年代、カープは昭和50年、昭和54年、昭和55年、昭和59年と4回のリーグ優勝、3回の日本一を成し遂げました。
本当に全盛期でした。
そのような全盛期を目の当たりにできた私た
ちの世代はとても幸せでしたが、それが心からわかったのはその後の厳しい弱小時代のことでした。
【つづく】