カープと私【№7】
2016.10.20|中井 克洋
その後、平成3年(1991)年にカープが現時点までで最後の優勝を成し遂げました。
山本浩二監督の時ですが、津田投手が脳腫瘍におかされました。
正直言ってそれほどの戦力とも思わなかったのですが、中日を大逆転してリーグ優勝しました。
西田が4番を打ち、前田、江藤が台頭し始め、投手陣はエースでこの年MVPをとった佐々岡、北別府、川口といったところで、抑えは津田がいないので大野だけでした。
その前に優勝した昭和61年は、私にとってエポックとなる年で、体をこわして、せっかく入社した会社からの退職を考える年でした。
そして次に優勝したこの平成3年も、私にとってやはりエポックとなった年でした。
昭和61年に体を壊した後、闘病生活中の昭和63年に会社を正式に退職しましたが、その間、病気を忘れるために司法試験の勉強を開始していました。
そしていろいろな療法をして何とか病気が寛解したので、時代が平成になる前後から本格的に受験生活をはじめました。
平成2年まで広島市中区千田町にあった広島大学で、憲法の阪本先生や国際法の西谷先生の研究室で勉強させていただき、学生にかえったような受験生活を続けました。
そして最後の1年ほど東京に出て、私の親友にタダで部屋を貸してもらって勉強させてもらいました。
その結果、当時、付き合っていた彼女(今の妻)にも支えられて合格したのが、平成3年の秋です。
10月に司法試験の最後の口述試験があったのですが、ちょうどそのとき日本シリーズをやっていたので、試験が終わると家のテレビで妻と試合をみました。
このときの日本シリーズも、西武が相手で、先に王手をかけて西武球場に乗り込んだのですが、最終戦で頼みの綱の川口が打たれて結局負けました。
しかしこのときには、カープはまたすぐに日本シリーズに出ることができるだろうと思っていました。
今思えば、そのころは全盛期のときの残照の時代だったと思います。
【つづく】