「8月6日 広島原爆の日」
2021.08.06|甲斐野 正行
東京オリンピックで日本選手が大活躍するなか、今日広島の原爆の日を迎えました。
もう76年も経つわけで、当時のことを知る人はどんどん少なくなっています。
もとより私も直接体験してはいないのですが、76年前の今日午前8時15分広島に、明明後日9日午前11時2分に長崎に原爆が投下されたこと自体を知らない方が多数にのぼることから、親の世代から聞いた話を備忘として残しておくべきかと思い、このブログにあげることにしました。
私の義父は、当時、旧制中学の3年生でしたが、8月6日の朝、勤労動員の作業に出かけるため、広島大学病院の正面玄関辺りに集合した同じ中学の生徒たちと一緒にトラックに乗せてもらって作業場所に向かう予定であったそうです。
ところが、乗る予定のトラックが遅れていたため、しばらく、そこで待っていた丁度そのとき、原爆が投下され炸裂しました。爆心となった当時の広島市細工町辺りから距離にして僅か約1.6kmでした。
義父は、その場所で爆風と熱線を受け、頭部に怪我をし、顔面左半分に火傷を負いましたが、場所的に比治山の陰となったことから、直撃を免れたようです。
義父は、予定通りにトラックが来て出発していたら、8時15分頃には爆心地寄りまで進んでいた筈で、直撃を免れなかったかも知れません。
ちなみに、私の亡き母も、当時学徒動員でマツダの工場にいたのですが、これも比治山の陰となったお蔭で直撃を免れたそうです。
比治山は、山と言っても、標高71.1mの小高い丘に過ぎないのですが、比治山が蔭となって直撃を免れた方は結構多かったのではないでしょうか。
義父がしばらくして我に返ったときには、周囲には火の手があがっており、急ごしらえの救護所で一応の手当を受けることができたものの、どこも大火事で近寄れず、高等師範学校附属中学校(今の広大附属高校)のグランドで他の多数の被災者とともに一夜を明かしました。
義父は、翌朝、バスも鉄道も動いておらず、どうしようもないので、住んでいた安佐郡伴村(当時)まで自力で歩いて帰ることにしました。1日中歩き続けて家までたどり着いたときには夜中になっていたそうです。
それ自体驚異的ですが、もとより無事なはずもなく、それから半月は、急性放射線症候群で心肥大になり、高熱と呼吸困難に苦しみ、強心剤注射を受けながら、寝たきりで過ごしたそうです。
幸い9月になると徐々に体力が回復し、2学期から復学することができたのですが、義父が最初に登校したときには、「お前、生きておったのか」と担任の先生が驚いて喜び、名列表の最後のところに新たに名前を書き加えてもらったそうです。
つまり、学校では被爆後の混乱の中で生徒がどうなったかは把握できておらず、連絡がなく、被爆当時の状況から義父は死亡したものと認識していて、名列表からは義父の名前を外されていたということなのでしょう。
もちろん、戻られなかった同級生も大勢おられました。
義父は、以後は、病気知らずで過ごすことができ、90歳の今も特別な体の不自由もなく、穏やかに生活していますが、この被爆のことを思い出すのは苦痛のようで、語り部のお誘いがあっても受けたことはありませんし、原爆資料館にも一度も行っていないそうです。
東京オリンピックがコロナ禍のもと、なんとか開催することができていますが、他方、今このときも、戦火の絶えない地域があるわけで、全世界的に平和な世の中になるように願ってやみません。